広島県竹原市に属する無人島、大久野島。
900羽を超えるウサギが生息していることから「ウサギの島」として観光地となっているこの島には、「毒ガスの島」というもう1つの異名がある。
昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)まで、大日本帝国陸軍は太平洋戦争で使用するための毒ガスを秘密裏に製造していた。
毒ガスの製造拠点として選ばれたのが、この大久野島だったのである。
そして大久野島での毒ガスの製造に携わったのが、まだまだあどけなさの残る10代前半の学徒たちであった。
1943年から1945年にかけて、旧制男子中学校や高等女学校、国民学校高等科の生徒たちのべ1048人が大久野島に動員され、ぶかぶかのガスマスクを装着し、毒ガスによる体調不良をごまかしながら懸命に作業に当たったのである。
毒ガスを扱う危険な作業を学徒たちに強いたこと自体が重大な問題だが、さらなる問題は、自分たちが製造している毒ガスがいかに危険なものであるかを彼らが知らなかったこと――自覚もないままに戦争犯罪に加担させられていたことだ。
本来享受すべき学びの時間を兵器の製造という忌まわしい行為に費やすことを強いられた彼らは、大久野島で何を見て、何を感じたのだろうか。
大久野島への学徒動員が始まったのは、1943年。
広島各地から集められた旧制男子中学校や高等女学校、国民学校高等科の生徒たちは、自分たちが何をすればいいのかも知らされないままに作業場に入った。
きょろきょろと周りを見回す彼らに配られたのは、子供が装着するにはずいぶん大きいガスマスク。工員たちの使い古しだった。
指導係の工員に言われるがままにガスマスクを装着した生徒たちだったが、すぐに何人かが「痛い、痛い!」、「肌がピリピリするし、目がチカチカする」、「急に涙が出てきた」と異常を訴え始めた。しかし工員は「すぐに外して顔を洗ってきなさい!」と言うのみで、なぜそのような症状が表れたのかを説明することはなかったという。
引率の教師も「この島はなんだかおかしい」と訝しむ様子は見せたものの、工員に問いただすようなことはしなかった。
作業場に入ったばかりの生徒たちに割り当てられたのは、発煙筒に込める火薬作りや、煙の出る噴煙口を塞ぐ作業だったという。
作業開始から1ヶ月もすると体調不良を訴える生徒が少しずつ増えていったが、作業が中断されることはない。生徒たちは「なんだかおかしいねぇ」と言い合いながらも、毎日の作業を着々とこなしていった。
彼らの体調不良の原因となっていたのは他でもない、大久野島で製造されている毒ガスだった。毒ガスは島全体を汚染し、島で作業をしている人々全員の身体に入り込み、少しずつ彼らの身体を蝕んでいったのだ。
当然、生徒たちはそのような事実を知る由もない――そもそも、自分たちが毒ガスの製造に関わっているという自覚すらなかったのだから。
工員は発煙筒を指差し、「ここから出てくる煙は敵の戦力を弱めるための煙幕で、直接的に攻撃をするものではない。つまりこれは人道兵器なのだ」と生徒たちに説明していたという。生徒たちは「やっぱり何かがおかしい」という思いを募らせながらも、身体が悲鳴を上げるのをごまかしながら懸命に作業を続けていたのだった。
戦争が進むと、生徒たちに新たな作業が割り当てられた。
風船爆弾の製造だ。
和紙を何枚も張り合わせて作った風船を水素ガスで膨らませ、その下に爆弾を吊るす。偏西風に乗せて飛ばせばやがてアメリカに到達し、よきタイミングで爆発する――誰が考えたんだと呆れてしまうが、大日本帝国陸海軍は真剣にこれらの開発、製造に取り組んでいたわけだ。現代のわたし達からすれば正気の沙汰ではないけれども・・・・・・。
実際、風船爆弾の製造にあたった生徒たちの中には「風まかせの兵器だなんて・・・・・・」と友人同士で囁き合うものもいたという。10代の少年少女らは胸に疑問を抱いたまま、“風まかせの兵器“の製造に時間を費やしていたのだ。きらめくような青春を謳歌できたはずの、もう二度と戻りはしない時間を。
敗戦間際になると、今度は「毒ガス疎開」という作業が始まった。
大久野島が敵の爆撃を受ければ、毒ガス被害が広範囲に及ぶ可能性が高い。それを防ぐために、ドラム缶に入れて保管されている大量の毒ガスを対岸の大三島に“疎開“させる必要があったのだ。
毒ガスの詰まったドラム缶を荷車に乗せ、桟橋まで運んで行く。ある生徒は、1日に13往復、およそ16kmもの道のりを走り通したこともあったという。
朝から晩まで、荷車に積んだ毒ガスを運ぶ毎日。生徒たちの身体に起こる異常は、ますます顕著になっていた。鼻水と涙が流れ、ひっきりなしにくしゃみが出る。中には水疱ができたり、視力が低下するという深刻な症状に見舞われるものもいた。
この期に及んでも、生徒たちは「あんた、鼻水が垂れてるよ」「あんたこそ、くしゃみばっかりして」と無邪気に笑い合っていた。中には「これ、やっぱりとんでもないものが入っているんじゃないの・・・・・・」と不安そうにドラム缶を見つめるものもいたが、彼らは基本的に楽観的だった。
そんな毎日は、終戦によって突如終わりを告げる。
昭和天皇が国民に敗戦を告げる玉音放送を、生徒たちは大久野島の広場で聞いていた。「日本は負けたんだ」とぼんやり理解できたものの、彼らは無表情のまま広場に立ち尽くしているしかなかったという。
大久野島で終戦を迎えた生徒たちの中には、その後原爆が投下された広島市内に移動し、被爆者の救護にあたった者たちもいた。
ようやく毒ガスの脅威から解放されたにもかかわらず、今度は内部被曝に身体を蝕まれることとなってしまったのだ。中には成人した後にも倦怠感などの後遺症に悩まされたものもいたほど、内部被曝とは恐ろしいものであった。
ろくな説明もないまま毒ガスの製造に携わらせられ、知らぬ間に「加害者」になってしまった生徒たち。
彼らの存在は大日本帝国陸海軍の愚かな過ちを世に知らしめるものでもあり、国にとっては「隠しておきたいもの」なのかもしれない。
けれども彼らの存在は、彼らの青春の時代が毒ガスの製造という忌まわしい行為によって費やされてしまった事実は、決してなかったことにはできない。
それらを風化させないこと、戦争のために若者たちの身体を蝕み、青春を奪い去ることなどあってはならないと伝え続けることが、戦争そのものの愚かさを示すために必要なことなのかもしれない。
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