転落する女たち②ジェーン・グレイ

世界の人物史

『転落する女たち』シリーズ2人目の主役は、「九日間女王」の異名で知られるイングランド史上初の女王、ジェーン・グレイだ。

彼女の名前を聞いて、ポール・ドラローシュが描いた『レディ・ジェーン・グレイの処刑』を思い浮かべる人も多いかもしれない。

純白のドレスに身を包み、白い布で両目を覆われたジェーン・グレイ、斬首台を探してさまよう彼女の手を取る司祭、その様子を憐れむような目で見つめる処刑執行人、ジェーンの後ろで彼女の運命を嘆き悲しむ2人の侍女・・・・・・。

2017年に日本各地の美術館で「怖い絵」展が開催された際、わたしはこの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』が見たいがために兵庫県立美術館に足を運んだ。あまりにも悲しく残酷な場面を描いたものであるにもかかわらず、わたしはただただその美しさに釘付けになった。特にジェーンが身に纏ったドレスの流れるような皺と光沢の美しさには、うっとりとため息をついてしまったほどだ。

明らかにこの絵を目当てに展示を見に来たという人は多く、展示の最後にどーんと飾られた『レディ・ジェーン・グレイの処刑』の前には人だかりができていた。ちょっと他の絵が気の毒なくら・・・・・・、いや、なんでもないです。

自らの潔白を訴えるかのような純白のドレスに身を包んだジェーンが斬首の刑に処されたのは、彼女がわずか16歳のとき。

白い肌と豊かな赤毛を持った可憐な少女は、一体なぜその若さで悲しい最期を遂げなければならなかったのだろうか。

ジェーン・グレイが投獄されたロンドン塔。ここに入った者は二度と生きては出られないと言われていた。

1537年、ジェーンは王家にもっとも近い血縁を持つ一族のひとつであるグレイ家の長女として生まれた。

父は第3代ドーセット侯爵(後のサフォーク公爵)ヘンリー・グレイ。

そして母は、後継者となる男児を得るために6度もの結婚を繰り返したことで有名なヘンリー8世の妹メアリーと、初代サフォーク公爵との間に生まれた娘フランセスだった。

彼らは3人の娘たちのうち、長女であるジェーンには特に高度な教育を受けさせた。

真面目で勤勉なジェーンにとってそれ自体は苦痛ではなかったが、両親のしつけは実に厳格なものだったらしい。

立ち居振る舞い、会話の仕方、食事の作法、刺繍やダンスなどのたしなみ・・・・・・

ジェーンが少しでもミスをしようものなら、両親は彼女を叱りつけ、時には暴力を振るうこともあったという。

王族の血を引く少女が両親から暴力を振るわれて育つなんて、親ガチャ失敗にもほどがある。家ガチャは大成功なのに。

常に両親に叱られないよう気を張りながら過ごすジェーンにとっての癒やしは、大好きな本を読み耽ることだった。

物語の世界に没頭し、時折窓の外に目をやり緑や駆け回る動物たちを眺めるひとときだけが、ジェーンの心を穏やかにしてくれた。

このような真面目で内気な少女がイングランド史上初の女王になるなんて、一体誰が予想できただろう。・・・・・・いや、真面目で内気な性格だったからこそ、無理やり女王の座に担ぎ上げられたというのが実際のところなのだけれども。まぁそのへんはまたあとで。

常に両親の顔色をうかがう窮屈な生活を送っていたジェーンのもとに、キャサリン・パーからのロンドンへの招待が届いたのは1547年のこと。

キャサリン・パーはヘンリー8世の最後の妻で、ヘンリー8世が逝去したのを機に王宮を去り、ロンドンのチェルシーに宮殿を構えていた。

そんな彼女が、「ジェーンはわたくしの宮殿で教育いたしますわ」と申し出たのである。

当時、上流階級の若い娘たちは後見人となる貴婦人のもとに預けられ、レディとしての振る舞いや教養を身につけるのが一般的だった。

そのような慣習が、ジェーンを両親の監視下から解放し、ロンドンでの華やかな生活に導いたのだった。

ジェーンは心優しいキャサリン・パーと、すでに宮殿に身を寄せていたヘンリー8世の娘エリザベス(のちのエリザベス1世)とともに、学問と読書に明け暮れ、時にはきらびやかなドレスを着て演奏会を楽しむという自由な生活を謳歌する。

この頃が、彼女の短い生涯の中で最も幸福な時代だったのではなかろうか。

しかしその裏で大人たちが繰り広げていた権力闘争により、ジェーンの幸せはあっけなくぶち壊されてしまうのである。

キャサリン・パーは、当時の国王エドワード6世の伯父であるトマス・シーモアと密かに再婚していた。

けれどもトマスは兄であるエドワード・シーモアとの権力闘争に奔走しキャサリンことを放ったらかしにしていただけでなく、なんとエリザベスに言い寄っていたのである。ちなみにエリザベスは当時13歳。トマスきしょすぎんか。

慈悲深く心優しいキャサリンも、さすがにこれには激怒。ジェーンを連れてさっさと他の宮殿に移ってしまう。

その後のキャサリンの不幸っぷりといったら、もう見ていられないレベルだ。

トマスとの子を出産するものの、産後すぐに死亡。

せっかく産まれた子供も、「なんやねん女の子やないか!!!!」と激怒したトマスにないがしろにされてしまう。まじでトマスないわ。

このとき、ジェーンはわずか11歳。

実の母のように慕っていたキャサリン・パーの死によるショックに打ちひしがれる少女の胸の内を思うと、こちらの胸も張り裂けそうになってしまう。

さて、キャサリン亡き後のトマスは、兄エドワードとの権力闘争に勝利するべく何やかんやと画策するものの、結局はエドワードの命によって処刑されてしまう。

晴れて権力闘争に勝利したエドワードも、「あいつは弟を殺した薄情者だ!」とディスられまくり、すぐにその地位は危ういものとなっていく。

そんな中、「そろそろ俺の時代じゃね?」とニヤニヤしていたのがウォーリック伯ジョン・ダドリーだ。

ダドリーは邪魔者のエドワードをさっさと処刑し、国王エドワード6世の命を受け護国卿に昇進。あっというまにイングランドの最高権力者にまで上り詰めてしまったのである。

ところが、病弱だったエドワード6世は風邪をこじらせ、ベッドから起き上がるのも難しい状態に。

もしもエドワード6世が崩御すれば、次に王座につくのは彼の異母姉メアリー。彼女はカトリック教徒であった。

メアリーが即位すれば、プロテスタントの最高権力者であるジョン・ダドリーはさっさと消されてしまうだろう――当時のイングランドではカトリックとプロテスタント、どちらの宗派の国王が君臨するかで勢力図がガラリと変わってしまう可能性があったのだから。

ジョン・ダドリーが自分の地位、そして命を守るためには、プロテスタント教徒を王座につかせる必要があった。

そこで目をつけられたのが、他でもないジェーン・グレイである。

ジェーンは信心深いプロテスタント教徒であり、メアリー、エリザベス、そして母であるフランセスに次いで第4位の王位継承権を持っているのだ。

真面目で内気なジェーンなら、簡単に言いくるめられるだろう・・・・・・そう考えたジョン・ダドリーはジェーンを王座につかせるために動き始め、わずか15歳の彼女を息子であるギルフォード・ダドリーと婚約させてしまったのである。

当然ジェーンはそれを拒否したが、母フランセスが平手打ちを浴びせながら「もう決まったことなのだから従いなさい!」と怒鳴りつけたことで抵抗する気力を失ってしまう。

不本意な結婚によりジェーンが精神を病む中、国王エドワード6世が崩御。

義父ジョン・ダドリーの屋敷に呼び出されたジェーンは、ダドリー一家と両親、そして地位の高い数人の貴族に取り囲まれ、「エドワード6世は、あなたを次の女王にするようにと遺言を残されました。どうか覚悟をお決めください!」と迫られたのである。

突然のことにジェーンは青ざめ、「そんなはずはありません!次の女王はメアリー様ではないのですか!?」と激しく首を振りながら反論した。

しかし、彼女を取り囲む大人たちは口々に「亡き陛下のご意志ですよ!」、「カトリックのメアリー様が即位すればわたくし達は殺されるのよ!」、「どうか決断してください、女王陛下!」とまくし立てる。

幼い頃から両親に服従し、大人たちに歯向かう気力すら奪われていたジェーンが、そのような場で自分の意思を貫き通すのはもはや不可能だった。

こうして1553年7月10日、ジェーンはイングランド女王となり、ギルフォード・ダドリーは女王の夫という地位を手に入れたのである。

これこそが、ジョン・ダドリーの狙いだったのだ。自分の息子を玉座の隣に据えてジェーンを傀儡の女王とし、実権はまるっと自分が握る――まんまと上手く行って気持ちよかったやろうな。

しかしそんなジョン・ダドリーより1枚も2枚も上手だったのが、本来王位継承順位第1位であったメアリーだ。

ジェーンの即位から2日後の7月12日、メアリーは枢密院に王位を要求する旨の文書を送りつける。

最初枢密院はそれをつっぱねたが、ジョン・ダドリーの強引なやり方に不満を持った貴族たちが次々とメアリーに寝返るのを見て、7月19日にはあっさり「女王はメアリー様ってことで!」と宣言してしまうのである。呆れるくらい頼りないな。

こうして、ジェーンはわずか9日間で女王の地位を追われたのである。

ジェーン自身は「女王になんてなりたくない!」と思っていたわけだし、この流れは彼女にとっては大ラッキー・・・・・・なんて単純な話ではなく、「前女王」であるジェーンは、新たに女王となったメアリーにとっては脅威だった。

というのも、前述の通りメアリーはカトリック教徒。

彼女が女王になったことによって、イングランド国内のプロテスタントたちが「再びジェーン様を女王に!」と打倒メアリーに燃える可能性は十分にあった。

それに、ジョン・ダドリーほどの野心家がすんなりと諦めるとも思えない。

メアリーはジョン・ダドリーと息子のギルフォード、そしてジェーンをロンドン塔に送り込み、「カトリックに改宗するから命だけはゆるして」と泣きつくジョン・ダドリーをさっさと処刑してしまった。さすがはブラッディ・メアリーと恐れられた女である。

しかしそんなメアリーも、ジェーンに対しては同情的だった。グレイ家が彼女の母キャサリン・オブ・アラゴンと交流が深かったことや、ジェーン自身に野心がなかったこと、彼女がまだ16歳だったことなどがその要因として考えられる。情に厚い一面もあったんやね。

ところが、メアリーがカトリック強国であるスペインの皇太子と婚約したことが発表されると、たちまち国内のプロテスタントが反乱を起こした――それも、ジェーンを旗印に担ぎ上げて、だ。もうジェーンのことはそっとしといてやれよ。

これによりメアリーの周囲では「ジェーン様を生かしておくのは危険です!」との声が高まり、メアリーはとうとうジェーンとギルフォードの処刑執行令状にサインをしたのである。

1554年2月12日に執行されたジェーン・グレイの処刑の様子は、冒頭でお伝えしたとおりだ。

こうして、周囲の野心に翻弄されたジェーンの人生は、わずか16年で幕を閉じたのである。

彼女が最後まで自分の幸せを追い求めることすらできなかったことを思うと、その悲しさと儚さに胸が締めつけられる。

けれども彼女の生涯が悲しく儚いものであったがゆえに、今もなお多くの人がジェーン・グレイという少女に魅了されているのだろう。

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たまに歴史の本を読み漁りたくなるにわかレキジョ、一児の母。
興味の赴くまま歴史や国際問題に関するトピックを書きつつ〝明日をちょっと照らす言葉〟を投げかけていきたい。

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