ブログのタイトルにもあるように「にわかレキジョ」のわたしは、興味のある歴史や人物史についての書籍を数冊読んでは、またちがうものに興味を惹かれて・・・・・・なんてことを繰り返し、非常に浅く、偏った知識をコツコツコツコツ頭の中に溜め込んでは、「また知的好奇心が満たされたわ♪」なんて悦に浸っている。
特に興味を惹かれるのは、一国の王妃でありながら悲劇に見舞われた女性であったり、王族の血を引いているというだけで本人の意志にかかわらず勢力争いに巻き込まれた女性であったり、はたまた、皇族に嫁いだばかりに悲惨な人生を送る羽目になった女性・・・・・・要は、恵まれた地位にいながらそこから転落し、悲劇のヒロインになってしまった女性だ。
悪趣味と言われればそれまでだけれども、ぶっちゃけ美しく気品あふれる女性が悲劇に巻き込まれるさまというのは、なんともいえず心惹かれるものではないだろうか・・・・・・。
今回は(わたしの中で)恵まれた地位にいながら悲劇のドン底に転落してしまった女の代表格、マリー・アントワネットのお話をしたい。
わたしの浅ーい知識をもとに好き勝手書かせていただくので、ゴシップ記事でも読むような気持ちで、温かく見守ってやってくだせぇ。
断頭台に散ったフランス王妃
フランス王妃としてその名を知られているマリー・アントワネットだが、彼女の出身地はオーストリア。
本名(というべきなのか)はマリア・アントーニアで、マリー・アントワネットとはそれをフランス風に改めたものである。
父は神聖ローマ皇帝フランツ1世、母はかの有名な女帝、マリア・テレジア。
「後継者問題で悩むのはごめんだから、とにかく子供をたくさん産むわよ!」という強い意志のもと、マリア・テレジアは16人もの子供を出産。アントーニアは15番目の子供だった。
両親とたくさんの兄弟姉妹に囲まれ、のびのびとした幸せな少女時代を送っていたアントーニアに転機が訪れたのは、彼女がわずか14歳のとき。
フランス王太子、ルイ・オーギュストと結婚することが決まったのである。
それは、オーストリアとフランスの同盟関係を深めるためのもの――要は政略結婚であった。
14歳で外国に嫁入りさせられるなんてハードすぎん!?・・・・・・なんて思ってしまうけれども、それは庶民の感覚なんやろうな。
結婚が決まってから慌ててフランス語の勉強をし、王太子妃としての振る舞いを叩き込まれたマリア・アントーニアあらためマリー・アントワネットは、オーストリアからはるばるフランスのパリへ。
1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にてフランス王太子ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットの結婚式が盛大に挙行されたのである。
アントワネットは晴れてフランス王太子妃となったわけだ。「晴れて」という言葉が適切かどうかは知らんけども。
わずか14歳でフランス宮廷に嫁入りしたアントワネットは、憐れなことに「どうしてみんなしてわたくしを惨めな気持ちにさせるのよ!」なんて不満を抱くようになる。
義父のルイ15世の寵妃デュ・バリー夫人とはバチバチに対立するわ、夫であるオーギュストとは(ふたりとも若いがゆえに)すれ違いばかりだわ、そのせいでなかなか子供ができず母マリア・テレジアに「あなたたち本当に子作りしてるの?」なんて疑われるわ・・・・・・若いのに心労が多いな。
うっぷんを晴らすため、アントワネットは仮面舞踏会や賭博などの遊びに熱中するようになる。
後々「あの人とアントワネット様ってデキてるの?」なんて噂されることになるフェルセンとの出会いも仮面舞踏会だったとかそうじゃないとか。顔も見えない状態で出会ってそういう仲になるってロマンあるね。
舞踏会に着ていくドレスを次々と新調するのも、アントワネットには心の慰めだったようだ。若い女の子って感じでいじらしいよ。
マリア・テレジアから再三「振る舞いには気をつけなさいよ」といった内容の手紙が来たものの、それでアントワネットの遊びたい欲がおさまることはなかった。
けれども第一子マリー・テレーズの出産を機に、アントワネットに心境の変化が訪れる。
結婚7年目にしてようやく子供を産むことができたという安堵からか、はたまた子供可愛さからか、彼女の気性はとても穏やかになり、賭博もきっぱりやめたという。子は宝だよね、わかる。
マリー・テレーズとルイ・シャルル、可愛いふたりの子供たち(アントワネットは4人の子供を出産したが、あとのふたりは夭折)とともに畑いじりをしたり家畜を眺めたりと、平穏で幸せな日々を送るアントワネット。
そんな中、義父のルイ15世が他界したことで、オーギュストがルイ16世として即位する。
それに伴い王妃となったアントワネットだが、その地位とは裏腹に彼女の人生は転落の一途をたどることになる。
1789年7月14日、重税による貧しい暮らしに不満をつのらせていたフランス国民は、ついにその怒りを爆発させた。フランス革命の始まりである。
彼らの怒りは王政そのものに向けられたが、アントワネット個人に向けられた「国民は明日食べるパンすら手に入らねぇってのに贅沢三昧しやがって!」という怒りも相当デカいものであった。こればっかりはアントワネット、身から出た錆ってやつよ。
身の危険を感じたアントワネットは、家族でフランスを脱出してオーストリアにいる兄に助けを求めようと計画する。仮面舞踏会で出会ったボーイフレンド(と言っていいのかは知らんけど)、フェルセンも全力でその計画が成功するようサポートした。
1791年6月20日、ついに国王一家はフランス脱出計画を実行する。
・・・・・・のだが、出発早々トラブルの連続だった。
アントワネットが「家族みんなで乗れる大きな馬車がいいわ」とたいしたスピードも出ない馬車を所望したり、ルイ16世が「喉かわいちゃうからワインをたくさん持って行きたい」とほざいたりしたせいで、荷物をどっさり積んだデカくてとろい馬車で脱走する羽目になったのである。わたしがフェルセンだったら「こんな時まで贅沢言うなや!!」ってキレ散らかしてるわ。
結局は国境近くのヴァレンヌで正体がバレてしまい、アントワネットたちはあっさりパリに連れ戻されてしまう。
散々自分たちに貧しい生活を強いた国王一家がさっさと国を棄てて逃げようとしたのだから、当然国民の怒りは倍増。
ついにアントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、そしてルイ16世の妹エリザベート王女らは、タンプル塔に幽閉されてしまったのである。
そして1793年1月19日、裁判によりルイ16世の死刑が確定。21日にはさっさと刑が執行された。
アントワネットは8月2日にコンシェルジュリーという牢獄に移され、10月14日から16日にかけて革命裁判所で裁判を受けることとなった。
この裁判におけるアントワネットの振る舞いは実に立派なもので、教養の高さとユーモアを駆使して「わたくしは無罪ですわよ」と主張し続けた。その話術と聡明さに「この人無罪でいいんじゃね?」なんて空気にすらなったというのだからたいしたものである。アントワネットのお話聞いてみたいわ、フランス語わからんけど。
けれどもそれも判決を覆すには至らず、アントワネットも夫ルイ16世と同様に死刑判決を受けた。
死刑が確定してもなお、アントワネットの堂々とした振る舞いは変わらなかった。
死を恐れるでも自らの運命を嘆き悲しむでもなく、ひとり静かに遺書をしたためるなどして過ごしていたという。
死刑執行のため荷車に乗せられて革命広場に向かうときも、彼女はしゃんと背を伸ばし、きっかりと前を見据えて、群衆からの罵詈雑言をも静かに受け止めた。さすがは女帝マリア・テレジアの娘だと感心してしまうな。
さらに彼女の最期の言葉は、死刑執行人の足をうっかり踏んでしまった際の「お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」だったというではないか。これから自分を殺す人間にそんな上品に謝れますかふつう。これだからアントワネットは憎めないよね。
こうして1793年10月16日の12時15分、フランス王妃マリー・アントワネットの死刑が執行され、彼女の首は一瞬にしてギロチンではねられた。
故郷オーストリアで幸せな少女時代を過ごし、フランスに嫁ぎ王妃という地位を手に入れる――
表面だけを見れば華やかな彼女の人生のその中身は、絵に描いたような転落人生だったのだ。
アントワネットはいま、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂でルイ16世とともに眠っている。
不仲であると伝えられることが多いけれども、実際は(若くして結婚しちまったばかりに伝えられなかっただけで)互いに好意を寄せていたというマリー・アントワネットとルイ16世。
あの世ではお互い素直に愛情表現をして仲睦まじく過ごせていたらいいね、と願わずにはいられない。
・・・・・・さて、にわかレキジョのにわか知識で書かれたマリー・アントワネットの物語はいかがだったでしょうか。
今後もこんな感じで、興味の赴くまま、人物史を中心に書いていきたいと思います。
この記事を読んでちょっと面白いと思ってくださった方は、ぜひぜひ次回の記事もお待ちいただけたら嬉しいです。
ではでは!
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