にわかレキジョがにわか知識を駆使し、時に心の声を挟みながら、時代の波に翻弄された高貴な女性たちをご紹介する連載企画『転落する女たち』。
3人目のヒロインは、スコットランド女王兼フランス王妃という華々しい地位を手に入れながらもあっけなくそれを失い、44歳の若さで斬首台に散った薄幸の美人、メアリー・ステュアートだ。
わたしが彼女の存在を知ったきっかけは、小学生の頃に読んだエリザベス1世の伝記漫画だった。
当然それはエリザベス1世を思いっっっ切り美化して描かれたもので(※)、それゆえにメアリー・ステュアートは「エリザベス1世からイングランド女王の座を奪おうとしたがめつい女」として描かれていた。
※エリザベス1世の功績はもちろん素晴らしいものだし、彼女自身も魅力的な人間だったに違いないので、それについては「思いっっっ切り美化している」とは思わんけれども、さすがに伝記漫画に描かれているような完璧すぎる人間ではないやろ・・・・・・っていうアレね。
気になる人は『小学館版 学習まんが人物館 エリザベス女王』を読んでみてほしい。非の打ち所のなさすぎるエリザベス1世がそこにいるので(子供向けの伝記なんやから当然である)。
まぁ実際メアリーは「エリザベスなんかよりわたくしの方がイングランド女王にふさわしいわ!」と常々思っていたし、何度もエリザベス廃位の陰謀に関わっていたわけで。イングランド女王になりたくてしょうがない、がめつい女だったことは否定のしようがない。
けれどもその美貌と、生涯独身を貫いたエリザベス1世に対して3度の結婚を経験した「恋多き女」というイメージ、そして人生の絶頂期を10代のうちに終えてしまい、最後は反逆者として処刑されてしまうという波乱の人生・・・・・・
なんとも魅力的な「転落する女」ではないか(フォローになってるか?)
今回は、そんなメアリー・ステュアートの人生に迫っていきたい。
メアリー・ステュアートは1542年、スコットランド王ジャック5世と、フランスのギーズ家の公女マリーとの間に生まれた。
ギーズ家はフランス王室に最も近い血筋のひとつであり、メアリーはスコットランド王家とフランス王家の血筋を引くザ・プリンセスだったのである。「わたくしこそがイングランド女王!」とエリザベスに喧嘩を売りたくもなるわな。
のちにイングランド女王の座に固執するようになるメアリーは、父ジャック5世の死により、なんと生後6日でスコットランド女王として即位する。
0歳の女王なんて傀儡の極みみたいなもんで(失礼が過ぎる)、メアリーはすぐさまイングランド王ヘンリー8世に目をつけられてしまう(因縁のエリザベス1世の父である)。
ヘンリーはメアリーを自分の息子(当時5歳のエドワード6世)と結婚させることでスコットランドを支配しようと考え、メアリー誕生の報せを聞いてすぐさま使いを寄越したのである。0歳やら5歳やらの子供たちが利用されるの見てられんわ。
マリーは「ヘンリーの思い通りになどさせるものですか!」とそれを拒否し、メアリーを一時的に僧院に隠した後、自らの母国であるフランスに移住させる。それと同時に、5歳のメアリーは皇太子フランソワの婚約者となった。このときフランソワはたったの3歳である。おままごとじゃねえかよ。
とはいえこのフランス宮廷での生活こそが、メアリーの人生における絶頂期だった。
当時ヨーロッパの宮廷の中で最も洗練されていると言われていたフランス宮廷でメアリーは最高の教育を受け、13歳の頃にはラテン語を含むいくつもの言語をマスターし、騎兵隊もビックリの馬術までも身につけてしまう。まさに文武両道である。
おまけに彼女は透き通るような白い肌と、水晶を思わせる美しい瞳、すっと通った鼻筋と形の良い唇を持った美少女。
義父であるフランス国王アンリ2世が「こんなに完璧な少女は見たことがない!」と褒め称えるほど、メアリーは非の打ち所のないプリンセスだったのだ。
1558年、メアリーは婚約者であった王太子フランソワと結婚。
その翌年にアンリ2世が事故で亡くなり、フランソワが王太子から国王・フランソワ2世となる。
それに伴いメアリーもフランス王妃となり、彼女はフランスとスコットランド、2つの国に君臨することとなったのである。うーん、まさに絶頂期だ。
しかし、彼女がフランス王妃でいられたのはわずか1年半の間だけだった。
というのも、1560年にフランソワ2世が病死したのである。生まれつき病弱だったとはいえ、その人生は16年とあまりにも短いものであった。
さらにスコットランドにいた母・マリーも亡くなり、メアリーは一瞬にして悲しみのどん底に突き落とされることとなってしまったのである。
結婚からわずか2年半で夫を亡くし、その直後に故郷の母を亡くしてしまった彼女の悲しみはどれほどのものだっただろうか。18歳の女の子が背負えるレベルの悲しみじゃないよ。
フランソワの死により王妃の地位を失い、泣く泣くフランスを後にしたメアリーを待っていたのは、カトリックとプロテスタントが血なまぐさい争いを繰り広げ、貴族たちが必死こいて権力争いをする野蛮な母国、スコットランドだった。
どこの国にも権力をめぐるいざこざはあるけれども、スコットランドは文化の遅れなんかも著しく、華やかなフランスから帰ってきたメアリーはその落差にガッッッカリしてしまう。
こんなことなら、多少肩身の狭い思いをしてでもフランスに残ればよかった・・・・・・と頭を抱えるメアリーが目に浮かぶようである。
しかし、彼女に落胆している暇はなかった。
なんせ彼女はまだ19歳であり、輝くばかりの美貌とスコットランド女王という地位を持ち合わせているのだ。未亡人となりフランスから戻ってきたメアリーのもとには、ヨーロッパ中から次々と縁談が舞い込んできた。
やがて23歳となったメアリーの心を射止めたのが、ダーンリー卿ヘンリーだった。
ダーンリー卿はイングランド王ヘンリー7世の王女、マーガレットの孫であり、さらにカトリックを信仰していた。
メアリー同様、王家の血を引いたカトリック教徒であるダーンリー卿は、まさに結婚相手にピッタリだったわけだ。
しかしそんな打算的なアレコレを差し引いても、メアリーはダーンリー卿と結婚したくてたまらなかった。というのも、彼女はダーンリー卿のビジュアルと立ち振る舞いに一目惚れしてしまったのである。
身長が180cmあったと言われる(!)メアリーよりも背が高くてモデル体型で、おまけにロンドン宮廷仕込みのその立ち振る舞いは実に優雅なものであった。華やかなフランス宮廷でのくらしを懐かしむメアリーの目には、さぞ輝いて映っただろう。
1565年7月29日、ふたりはめでたく結婚。恋い焦がれてやまなかったダーンリー卿との結婚生活はまさにバラ色の日々・・・・・・と、なるはずだった。
ところがどっこい、メアリーは結婚してすぐに「こんなしょーもない男と結婚するんじゃなかった!」と後悔する羽目になるのである。
なんせ両親から甘やかされて育ったダーンリー卿は、見栄っ張りで傲慢で、そのくせ小心者ときた。一目惚れしたからって軽率に結婚するもんとちゃうな。
息子のジェームズが産まれても、ふたりの愛が再び燃え上がることはなかった。
夫への愛が冷めたメアリーはなかなか冷酷なもんで、恋仲になった軍隊長のボスウェル伯と「あいつ邪魔だから殺しちゃおっか♡」と共謀し、ダーンリー卿を事故死と見せかけて殺してしまう。ボスウェル伯はあんたじゃなくてあんたの地位に惚れているのにアホやな。
しかしボスウェル伯と再婚するやいなや、ヨーロッパ中から「お前らがダーンリー卿を殺したんちゃうんか!」と非難の声が集まり、スコットランド国内では貴族が反乱を起こす始末。
身の危険を感じて亡命しようとしたメアリーは捕らえられ、ボスウェル伯は彼女をあっさり見捨てて逃亡してしまう。つくづく男を見る目がないな。
メアリーの王位は剥奪され、息子のジェームズがわずか1歳でスコットランド王ジェームズ6世として即位することに。もはやスコットランドにメアリーの居場所はなくなってしまったわけだ。
絶体絶命のメアリーはなんとかイングランドへ逃れ、あろうことかエリザベス1世に「助けてお姉さま~!」と泣きついたのである。
当然、エリザベスは「メアリーをどう扱えばいいものかしら・・・・・・」と頭を抱えた。メアリーは従姉妹であるし、一国の女王であるという共通点も相まって助けてやりたい気持ちは山々だ。しかし、彼女が常々「血筋から言っても、エリザベスよりわたくしの方がイングランド女王にふさわしいじゃないのよ!」と主張し、エリザベス廃位を企てていたことも耳に入っている。
エリザベスとメアリーの確執
メアリーが「エリザベスはイングランド女王にふさわしくない!」と主張するのには、もちろんちゃんとした理由がある。
エリザベスの父はイングランド王ヘンリー8世ではあるものの、母アン・ブーリンはヘンリー8世の正式な妻ではなかった。つまり、エリザベスは王位継承権を持っているといえど非嫡出子なのである。
それに引き換え、メアリーは”れっきとした”イングランド王ヘンリー7世の孫。
彼女の主張は真っ当なものではあったし、ローマ教皇をはじめ多くのカトリック教徒も「メアリー様こそがイングランド女王だ!」と考えていたらしい。
このような経緯から、真のイングランド女王は自分だと主張するメアリーvsイングランド女王の座を譲るわけにはいかないエリザベスという対立関係ができたわけだ。
結局、エリザベスは田舎町にポツンと佇む城を住居としてメアリーに与えてやることにした。なかなか情に厚いお姉さまである。
それは事実上の幽閉であったものの、メアリーがその城で過ごした18年間(!)は思いがけず楽しいものであった。フランス風の宮廷を作ってパーティーを開いたり、趣味の刺繍にいそしんだりと、「囚人」と呼ぶにはあまりにも優雅な生活を過ごすことを許されていたのである。もはや羨ましいまであるな。
しかし長い幽閉生活の中で、彼女の王座への執着は衰えるどころかどんどん増していく一方だった。
常に脱出とスコットランド王位奪還の機会を伺い、あわよくばイングランド女王の座もわたくしのものに・・・・・・と目をギラギラさせているメアリーの存在は、エリザベスにとっちゃうっとうしくてたまらない。城まで与えて匿ってやってるんだから大人しくしていればいいのにねぇ、なんて側近たちに愚痴ったこともあるんじゃないだろうか、知らんけど。
そんな中、イングランド議会で「エリザベス女王の地位や命を脅かす陰謀に参加した者は処刑する」という法律が可決される。
イングランド宮廷はそれを利用してメアリーを「女王暗殺未遂」の罪で裁判にかけ、あっさり彼女を斬首刑に処すことを決定してしまったのである。
エリザベスはそれでもなおメアリーの処刑をためらったものの、判決が下った翌年の1587年、ようやくメアリーの処刑執行令状に署名をしたのであった。
このとき、メアリーは44歳。
26歳の頃からずぅっっっと田舎町の城に閉じこもっていた彼女だったけれども、そのプライドと美意識が衰えることはなかった。
彼女が最期の衣装として選んだのは、真紅の裏地の黒いベルベットのドレスに、それに合わせた真紅のアンダースカート。そして白のロングヴェールに、黄金のシャトレーン・・・・・・。
長身のメアリーがその衣装をまとった姿は、どれほど神々しいものだっただろうか。
しかし不運とは最期の瞬間まで続くもので、メアリーの処刑はグッッッダグダだった。
というのも、斬首刑は非常に失敗率の高い処刑法であった。死刑執行人も人間だもの、斧を振り下ろす瞬間にうっかり手を滑らせたり、うっかり狙いを外してしまうことだってある。しかし当然ながら、完全に首を斬り落とすまでは何度でも斧を振り下ろし続けねばならない――つまり、死刑囚は息絶えるその瞬間まで、自分の首に斧がめり込み、肉が切り裂かれ、骨が砕かれる苦痛に悶える羽目になるのである。想像するだけで呼吸が詰まりそうだ。
結論から言うと、メアリーの首は一撃では斬り落とされなかった。
死刑執行人は最初の一撃をミスり、その焦りからかまさかのもう一撃もミスり、三度目でようやくメアリーの首を斬り落とすことに成功したのである。もうちょっと研修を徹底してほしい(死刑執行人の研修とは?)。
こうして、最期の最期まで不運な――いや、最期の最期まで執念深いとも言えるかもしれない――女王メアリー・ステュアートの波乱の人生は幕を閉じたのであった。
メアリーの死から16年後、因縁の相手エリザベスも死去。そして彼女の遺言により、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位することになる。
以後イングランドとスコットランドは同君連合(1人の君主が複数の国に君臨すること)を形作り、18世紀にはグレートブリテン王国として、グレートブリテン島全体を支配する国家となった。
これは現代まで続くイギリス(連合王国)の基盤となったわけだが、ジェームズ以降のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、そしてイギリス王は、すべてメアリーの直系子孫なのである。
最期まで王位への執着を捨てきれなかったメアリーの血は、現在に至るまで連綿と続いているというわけだ。どこまでも執念深い女である。
しかし、そんな恐ろしいまでの執念深さと気品に溢れた美しさのギャップがあってこそ、メアリー・ステュアートは今もわたし達を魅了し続けているのかもしれない。
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